癇癪(かんしゃく)持ちの叔父と甥? 江戸中期、21年の時を経て起こった2つの類似刃傷事件【後編】
太平の世といわれた江戸年間には大規模な戦こそ鳴りを潜めたが、藩ごとの小競り合いやトラブルは相次ぎ、結果的に改易になる藩や切腹して果てる大名も存在した。
中でも、江戸時代中期に起きた2つの刃傷事件は、その関連性から後世にも語り継がれる有名な事件となった。今回は、【前編】に続き同族出身の武士が起こしたもう一つの事件をご紹介する。
前回の記事
癇癪(かんしゃく)持ちの叔父と甥? 江戸中期、21年の時を経て起こった2つの類似刃傷事件【前編】
浅野長矩(浅野内匠頭)あさの ながのり
播磨国(現在の兵庫県)赤穂藩の3代目藩主。1667年、2代藩主長友の長男として江戸に生まれる。1675年に父・長友が急死するとわずか9歳で赤穂藩主を継いだ。
1683年。17歳にしてはじめて所領である赤穂入りし、国許の家臣たちと対面している。その後は、参勤交代により江戸と赤穂を行き来する生活を続けた。
1696年には疱瘡(天然痘)を患い一時危篤に陥るものの完治。
1701年には、勅使の御馳走人(天皇の使者を迎え接待する役職)に任命された。
殿中(松の廊下)刃傷事件
1701年4月21日。勅答の儀式の当日。長矩は御馳走人としてそれまでの役目をそつなくこなした。勅使の御馳走人には礼儀作法を教授する礼法指南役が存在し、役目は高家旗本の吉良義央(きらよしひさ)であった。吉良は1683年に天皇の勅使が江戸へ下向した際にも長矩の指南役を努めていた経緯があり、2人は顔見知りであった。
儀式が迫った昼時、長矩は突如として江戸城本丸松の廊下にて打ち合わせ中の吉良義央の背後から脇差で斬りかかり、額と背中に軽傷を追わせる暴挙に出た。
勅使下向中の出来事とあって、自身の顔に泥を塗られた徳川5代将軍・徳川綱吉は激怒し、長矩の切腹と赤穂藩の改易を命じた。
長矩は即日切腹。享年35。墓所は東京高輪の泉岳寺。
忠勝と長矩
殿中刃傷事件を起こした浅野長矩の母親は波知といい、1680年に増上寺刃傷事件を起こした内藤忠勝は波知の弟にあたる。
長矩の人格に関しては、生来の癇癪持ちや短気といった人物像を記した書物が現存し、忠勝の気質が受け継がれたとする見解も存在するが、推測の域を出ず根拠は存在しない。