日本史を2万年も増やした男「相澤忠洋」を君は知っているか?:3ページ目
考古学者・相澤の艱難辛苦
相澤忠洋の功績について簡単に記してきましたが、実際には、彼が「旧石器時代」を発見した考古学者として認められるまでは長い年月が必要でした。
当初は、相澤の発見をまともに取り合う学者はいなかったのです。
なんとか考古学者たちを説得しようと、彼は自転車で何度も群馬と東京を往復したそうです。
また、岩宿遺跡が発掘されても、彼はただの情報提供者としてしか扱われませんでした。しかも、地元の人や郷土史界からは売名だの詐欺師だのと誹謗中傷を受けました。
相澤はそれでも情熱を失うことなく、発掘に人生を捧げたのです。
彼が優秀な、れっきとした一人の考古学者として世間に認められるまでは、最初の石器の発掘から約20年もの歳月がかかりました。
今では、旧石器時代の概要は教科書でも当たり前のよう書かれています。これを現代の私たちが学ぶことができるのも、全ては相澤が考古学にかけた情熱のおかげなのです。
彼の発掘調査は岩宿遺跡を発見した後も続き、晩年までに発見した遺跡の数は21カ所にのぼります。
また、最後に発見された夏井戸遺跡には、現在「相澤忠洋記念館」があります。
この夏井戸遺跡は、約6万年以上前の前期旧石器時代のものとされています。
生前、相澤はなんとここに廃バスをもちこみ、「赤城人類文化研究所旧石器研究室」を開設して仲間と発掘を行っていたそうです。
最後まで情熱を失わず、大好きな発掘調査に人生を捧げた相澤忠洋氏。彼の熱意が、日本史の何万年ぶんもの歴史を「増やした」と考えると凄いですね。こうした情熱をもって私たちも生きていたいものです。
(相澤忠洋の姓の表記については、書籍やサイトによって「相沢」「相澤」と二種類ありますが、本稿では「相澤」で統一しました)
参考資料