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江戸時代グルメ雑学 十五夜も十三夜も正月もサトイモ!日本では古くから神聖な食材とされてきた「里芋」の歴史

十五夜も十三夜も正月もサトイモ!日本では古くから神聖な食材とされてきた「里芋」の歴史

東南アジアから伝わった、サトイモとその「神聖さ」

サトイモの原産地は、東南アジアの熱帯降雨林だと言われています。太平洋の島々には、古代マレー族の移動によって伝わったそうです。

日本列島に渡来したのは、まだ稲作が始まるよりも前の縄文時代の中期以前。今からおよそ五千年前とみられています。

ちなみにインドネシアやフィリピンなどでは、サトイモを「ウヒ」といい、これが沖縄では「ウム」になり、日本に上陸して「ウモ」となったと言われています。

そしてサトイモの原産地である東南アジアには、今でも、旧暦の八月十五日の満月の夜にタロイモを食べる行事があるそうです。

ただ、サトイモは腐敗が早く、クルミなどの堅果類と違って遺跡から出土した例がありません。よって縄文時代のサトイモ農耕は確認されていないのですが、月へ供物を捧げる習慣が、古代のサトイモ文化のひとつとして渡来したと考えることは十分可能です。

このようにして見ていくと、旧暦の八月十五日は、単なる満月を鑑賞する日ではなく、日本でも「サトイモの収穫祭」の日でもあったと考えられます。

これはもちろん仮説ですが、昔の日本人にとってのサトイモの重要性を補強する事実はたくさんあります。

お月見につきものの「団子」ですが、これも、もともとは小芋(サトイモの親芋に対する小さい芋)をかたどったものだったのです。

江戸時代末期の『東都歳時記』では十五夜について「看月(つきみ)、諸所賑へり。家々団子、造酒(みき)、すすきの花等月に供す。清光くまなきにうかれ、船を浮べて月見をなす輩多し」とあり、「中古迄は麻布六本木芋洗坂に青物屋ありて、八月十五夜の前に市(いち)立て、芋を商ふ事おびただしかりし故、芋あらひ坂とよびけるなり」ともあり、天保以前は団子ではなくイモを使っていたことが分かります。

また、同じく江戸時代末期の『守貞漫稿』では、京都・大阪の十五夜について、団子はサトイモの形に作って醤油煮にし、砂糖を加えたきな粉を衣にして三方に十二個ずつ、閏年には十三個ずつ盛って供える、と説明しています。

いわゆる「お月見団子」は、もともとはイモだったのです。

団子をわざわざ小芋の形にするのは、それだけサトイモが重要な食べ物とみられていた証拠でしょう。

お月見団子にとどまらず、お正月に食べるお雑煮でもサトイモは使われていました。元禄時代に記された『本朝食鑑』では、雑煮には必ずといってよいほど、餅といっしょに里イモが入るという記述があります。

また、お正月に餅を食べずに、サトイモだけで新年を迎える地域は今もあるようです。

お正月に食べる食べ物は、神様の神聖な力を得るための重要な「神饌」でもあります。サトイモもまた、他の縁起物のお正月料理と同様に神聖な食物だったのです。

3ページ目 栄養食としてのサトイモ、その健康効果

 

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