2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」注目の一人!二階堂行政が魅せた影の実力者ぶり:2ページ目
鎌倉と京都の架け橋として活躍
それからはひたすら日々の仕事を淡々とこなし、文治5年(1189年)7月に藤原泰衡(ふじわらの やすひら)を征伐した奥州合戦で軍(いくさ)奉行を務めた折、由利八郎維平(ゆりの はちろうこれひら。泰衡の郎党)の生け捕りに際して相論をとり裁いた報告書を送っています。
この奥州合戦で討死した敵味方の霊を供養する為に建立された永福寺(ようふくじ。現:神奈川県鎌倉市二階堂)の近くに邸宅を構えたことから、後に二階堂を家名に称しますが、行政が生前称していたのは本姓の藤原で、公文書にも「散位藤原朝臣(さんみ ふじわらのあそん)」と署名しています。
ちなみに、二階堂とは永福寺が二階建てだった(※残念ながら現存せず)ことに由来しますが、言われてみれば寺院のお堂は一階建ての平屋が多く(御本尊の上下に立ち入ることを遠慮したのでしょうか)、二階建ては珍しいですね。
行政が永福寺の近くに邸宅を構えた理由は不明ですが、単にそこに土地を与えられたのか、もしかしたら奥州合戦で大切な誰かを喪い、その菩提を弔いたいと言った動機があったのかも知れません。
さて、建久元年(1190年)9月に頼朝公が上洛された際は路銀(旅費)や宿泊、朝廷へ貢納する金子(きんす)その他もろもろを取り仕切る諸事奉行人の筆頭として活躍。
荒くれ者揃いの坂東武者たちに「くれぐれも粗相のないよう」色々と気を配り、京都の公家たちにもあれこれと根回しに走り回った結果、これと言ったトラブルも(あまり)起こさずに任務を完遂できました。