2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」注目の一人!二階堂行政が魅せた影の実力者ぶり:3ページ目
鎌倉幕府のブレーンとして
こうして着実に信頼と実績を積み重ねた行政は、建久2年(1191年)に政所(まんどころりょう。公文所から改称)の令(りょう。次官)となり、建久4年(1193年)には政所別当となって、広元と肩を並べる(※別当が複数制に変更)までになります。
同年には朝廷より民部大夫(みんぶのたいふ)に叙せられ、鎌倉と京都の橋渡し役としてその存在感を高め、広元が任務で不在の折には政務を代行・統括するほど篤い信頼が寄せられました。
そして正治元年(1199年)に頼朝公が亡くなられ、その嫡子・源頼家(よりいえ)が第2代将軍職を継承すると、幕府は将軍親政を停止(※)して「鎌倉殿の13人」による合議制を採用します。
(※)頼家の裁可があまりに出鱈目だったとも、頼家の舅であった有力御家人・比企能員(ひき よしかず)の台頭を阻止する北条一族の差し金など、理由には諸説あるようです。
その中に民部大夫行政の名もあり、幕府のブレーンとして揺るぎない地位を誇りましたが、建仁3年(1203年)に頼家が伊豆国(現:静岡県伊豆半島)へ追放され、弟の源実朝(さねとも)が第3代将軍に就任すると、政所下文(くだしぶみ。命令書)の署名から姿を消しました。
この時すでに69歳(保延元・1135年生まれとして)、当時としてはかなりの高齢で、息子たちも立派に成長していたこともあり、そろそろ潮時と思っていたのでしょう。
没年は不明で、その最期についても記録がないため、影のうs……もとい謎の人物感を高めていますが、鎌倉幕府の草創期から2代将軍を見送るまでの約20年間、その屋台骨を支え続けた人生は、まさに「薄からぬ影の実力者」であったと言えます。
「歴史の行間」を描き出せるか
その後、行政の子孫たちは二階堂を称し、長男の行村は和田合戦(わだがっせん。13人の一・和田義盛の叛乱。建暦3・1213年5月)における論功行賞をとりまとめ、代々検非違使(けびいし)を輩出しました。
一方、次男の行光は政所の執事(政務次官)として義時を補佐し、子孫も多くが政所執事を務めます。
武の行村系と文の行光系……二階堂一族は鎌倉幕府における重要な役割を果たし、その滅亡後も大いに活躍するのでした。
めぼしい記録が少ないから、と書かないのも無難ですが、記録の少ない「歴史の行間」にこそ、魅力的な人物像を描き出して欲しい……その試金石として、二階堂行政の存在に注目したいところです。
※参考文献:
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
五味文彦『増補 吾妻鏡の方法-事実と神話にみる中世』吉川弘文館、2000年11月
鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究2 鎌倉時代の社会と文化』東京堂出版、1999年4月