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勝てば何でもありじゃない!源義経の命令で射殺された黒革縅(くろかわおどし)の鎧武者

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勝てば何でもいい訳ではない

ここで言う「情なし」つまり非難の的となっているのは、黒革縅鎧の男を射殺すように命じた義経です。

黒革縅鎧の男は50代という当時としては非常に高齢で、むしろ老人と言ってもいいでしょう。そんな彼一人を今さら射殺したところで源氏方の勝利に変わりはなく、敗者をいたぶるような振る舞いに、諸将は眉を顰めたのでした。

また古来、危険な最前線であえて飄(ひょう)げたパフォーマンスを演じることで自らの武勇を表現する慣習があり、敵もあえてその隙を衝いては殺さない、ある種の「お約束」があったのです。

(……それをあえて射殺すなんて、義経とは何て野暮で卑怯な大将なのだろうか……)

鎌倉殿である源頼朝(よりとも)公の弟御なればこそ、真っ向から批判する者は少なかったでしょうが、心ある武士たちの多くはそのように思ったことでしょう。

敵の強さを賞賛し、それを倒すことによって自らの強さを証明する……そうした武士たちの価値観や美学を尊重せず、勝つためならば手段を選ばず、その手柄はすべて自分のもの……そりゃ義経が御家人たちから嫌われ、孤立していったのも無理からぬところです。

かくして勝利を重ね、高慢になる義経を「お前そんなんじゃダメだよ。大好きな兄上(頼朝公)に嫌われちまうよ」と諫めたのが梶原景時(かじわらの かげとき)。

義経のあることないこと頼朝公へ讒訴(ざんそ。嘘の訴え)し、ついには破滅へ追い込んだことから「日本三大悪人(残りは高師直、松永久秀)」にされてしまった景時ですが、彼としてみれば、みんな(何より頼朝公)のため、あえて「汚れ役」を引き受けたのでした。

※幸い、近年では景時に対する再評価も進み、当時からあった「鎌倉本体の武士(武士の中の武士)」「一の郎党(頼朝公にとって第一の御家人)」という評価が定着しつつあるようです。

勝たねば生きていけない乱世とは言え、とにかく勝ちさえすれば手段は何でもよかった訳ではなく、殺し合いの中で生まれ、育まれた独自の倫理や価値観が、武士道として後世に伝わるのでした。

とかく「勝てば官軍、負ければ賊軍」などと言われる現代ですが、古き良き武士たちの精神も見直されて欲しいものです。

※参考文献:
大津雄一ら編『平家物語大事典』東京書籍、2010年11月
菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』角川書店、2005年4月

 

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