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想う相手はただひとり…精神的つながりも重んじる命をかけた武士同士の愛「衆道」【前編】

想う相手はただひとり…精神的つながりも重んじる命をかけた武士同士の愛「衆道」【前編】

美少年・世阿弥に魅せられた将軍

 

そして、武士の勢力が増してくると男色は武士の間にも広がるようになりました。

南北朝の合一や鹿苑寺(金閣寺)の建立した室町幕府3代将軍足利義満は、男色文化を取り入れたことで知られています。

義満は16歳の時、新熊野神社で行われた当時の能役者・観阿弥の興行を父と一緒に観に行った際、観阿弥の息子・世阿弥(11 歳)に出会い、その美少年ぶりにすっかり魅了されてしまいました。

そして、世阿弥を寵童として世阿弥一座を庇護するようになったのです。

当時、能役者の身分は非常に低いものでした。足利義満は祇園祭の桟敷席に世阿弥を招き、同じ器で酒を酌み交わしていたことは、周囲の人々に大きな衝撃を与えました。義満は、絶対的権力者でありながらこの点に関する限り、大いに批判をされたと伝わります。

たとえば、内大臣になった貴族の三条公忠(さんじょうきんただ)は、世阿弥のことを「散楽もの」で「乞食の所業をするもの」であると手厳しい表現で 日記にしたためていました。

将軍などに寵愛を受け男色の相手をすることは、才能がありながらも身分の低さに甘んじざるおえない人びとにとっては、出世や庇護を受けるための手段であったといわれています。

そして、江戸時代に入ると、武士特有の男色文化「衆道」が本格化。衆道とは、どのようなものだったのでしょうか。

【後編】でご紹介します。

 

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