想う相手はただひとり…精神的つながりも重んじる命をかけた武士同士の愛「衆道」【前編】
男同士が愛し合う、「男色」の道。今ではBL(ボーイズラブ)などとも呼ばれていますが、実は日本での歴史は古く平安末期には存在していました。
そして、男色は室町時代以降、特権階級から庶民にまで広がったそうです。
そして、江戸時代には武家社会における作法を含む「衆道(しゅうどう)」という言葉が誕生しました。
いにしえから生まれ宮中や寺院で流行った男色、そして精神的なつながりを重んじる武士社会で浸透した衆道……どのようなものだったのでしょうか。
男色文化の始まり
日本の男色に関する最古の記録は、720年成立の『日本書紀』の神功皇后の項にあります。
当時、昼間太陽が姿を消し夜のようになった日々が続きました。神功皇后がこの怪異の理由をある老人に尋ねたところ、
小竹祝(しののはふり)※1と云う男性が病気で亡くなったことを悲しんだ、親友の天野祝(あまののはふり)が後を追い、この世を去ってしまいました。
祝(はふり)※1:神職の役名
天野祝の希望通り二人を合葬したところ、神様がその行為を「阿豆那比(あづなひ)之罪」と考え、昼間でも暗くしてしまったとのことを告げたのです。
当時、神職は死しても生前に使えていた神に仕えることとされ、神社ごとに神職を埋葬する場所が決まっていたために、二人を合葬したことが罪であった……と伝わりますが、同性愛の罪によるものとする説もあります。
「日本書記」以外にも、万葉集や伊勢物語、源氏物語などに「男色」の記載があり、当時は、宮中や寺院などで男色が流行していたと考えられるのです。
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