戦国ファン必見!その名も「武田信長」というインパクト最強な武将が実在した:2ページ目
甲斐国への復帰ならず、各地を転戦して上総国へ
「おのれ、無念じゃ……!」
信重の口添えもあったのか、命ばかりは助けられた信長は、鎌倉で8年ばかり屈従の日々を送ることになりますが、永享5年(1433年)には鎌倉から出奔、甲斐国へ戻って再び叛旗を翻しました。
「今度こそ、甲斐国守護に!」
しかし甲斐国内はすでに信重が(統一できていないとは言え)勢力基盤を固めており、つけ入る隙のないまま跡部氏に敗退した信長は、駿河国(現:静岡県東部)へと逃亡、しばらく行方をくらませます。
※一説には室町幕府に仕えて武功を立て、相模国(現:神奈川県の大部分)に勢力基盤を築き上げて同国の守護職に任命された(嘉吉2・1442年ごろ)とも言われていますが、間もなく上杉氏によって守護職を奪われてしまいます。
「かくなる上は、いったん遠方にて態勢を立て直そう……!」
そこで今度は下総国(現:千葉県北部)まで逃れ、古河公方の足利成氏(あしかが しげうじ)に仕えます。
この成氏、かつて信長が上杉禅秀の乱で争った鎌倉公方・足利持氏の遺児で、やがて関東管領の上杉憲忠(うえすぎ のりただ)を暗殺し、室町幕府を相手どって戦う「享徳の乱※」を惹き起こしました。
※享徳3年(1455年)~文明14年(1483年)の28年間にわたって断続的な戦闘が関東一円で繰り広げられたことから「関東地方における戦国時代の幕開け」と考えられています。
「右馬助(うまのすけ。信長の官位)よ、そなたに兵を授けるゆえ、上総国(現:千葉県中部)におる上杉勢を蹴散らして参れ!」
「ははぁ……!」
誰かの下につくのは気に入らないが、相模守護職の座を奪った(?諸説あり)にっくき上杉氏を討伐できるならお安い御用……康正2年(1456年)ごろ、信長は兵を進めて上総国を制圧し、真里谷城(現:千葉県木更津市)を築き上げます。
「これでようやく、わしも一国一城の主じゃ!」
思えば討死した父の跡を継ぐべく、甲斐国守護を目指してから約40年……長い長い道のりを振り返れば、遠く上総国まで来ていたのでした。