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軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【前編】

軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【前編】

鳥羽上皇の罠

1129年。後ろ盾である白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇は院政を開始。白河法皇に近い人物を罷免し、自身の側近で要職を固めることで体制を盤石なものとする。また、藤原得子(なりこ)を寵愛した鳥羽上皇は、1139年に躰仁親王(後の近衛天皇)を授かる。

一方、聖子との関係は良好であった崇徳天皇だが、子供ができず躰仁親王を養子とした。ここに、腹違いの弟が同時に息子でもあるという歪な関係が完成する。

1141年。鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇が76代天皇に即位する。翌年、鳥羽上皇は受戒し鳥羽法皇となった。

本来であれば、崇徳天皇は上皇となり院政を行える立場にあったが、譲位を行った近衛天皇の宣命は「皇太弟」であった。この事実によって崇徳上皇は院政の権利を無くしてしまう。(院政には親子関係が必要)

これは鳥羽法皇の策略であったとされる。崇徳上皇を騙して譲位させることで院政の権利を奪い、自身の院政支配を盤石のものとした。

【中編】へ続く

 

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