軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【前編】
平安時代。第75代天皇に即位した「崇徳天皇(すとく)」は、日本の三大怨霊に数えられている。その背景には不幸な生い立ちと生涯が深く関係している。
今回は、家督争いの末に配流され、非業の内に崩御した崇徳天皇の生涯をご紹介する。
父親との確執
1119年に先帝である鳥羽天皇と皇后・藤原璋子(たまこ)の間に生まれた。母親の璋子は、幼い頃より鳥羽天皇の祖父である白河法皇に養われた身であり、二人の間には男女関係の噂があった。
父親である鳥羽天皇の譲位を受け3歳で即位。この頃にはまだ白河法皇が健在であり、政治の実権を握り続けていた。幼き崇徳天皇の即位には白河法皇の意向が働いていたとされる。
鳥羽天皇にとって白河法皇は邪魔な存在であり、白河法皇が後見した息子の崇徳天皇とも距離をおいた。
1129年。藤原聖子(きよこ)が崇徳天皇に入内。聖子の父親は摂政関白・太政大臣の藤原忠通であり、鳥羽天皇に仕える人物であった。
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