卑弥呼のモデルとされる「倭迹迹日百襲姫」とはいったい誰?正体を日本書紀の記述から推測【前編】:2ページ目
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その墳墓から卑弥呼の有力候補とされる
倭迹迹日百襲姫が、卑弥呼のモデルと考えられる大きな理由の一つは、その墳墓にあります。『日本書紀』には、倭迹迹日百襲姫の墓は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡内にある箸墓(はしはか)古墳とされ、宮内庁により陵墓として管理されているのです。
纏向遺跡は、邪馬台国畿内説の最有力候補地。その中にある古墳群で盟主的な箸墓古墳は、日本最古級の前方後円墳と目されています。
全長約280mの堂々たる姿で、後円部の直径約は約150m。『魏志倭人伝』にいう卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」(約180m)に近いことから、古くから卑弥呼の墓という説が唱えられてきました。
箸墓古墳の築造年代は一般には3世紀後半とされています。卑弥呼の没年は3世紀中頃の247~248年頃と推定されるので、卑弥呼の墓としては、約50年ほど合わないことになります。
ところが、近年に箸墓古墳周辺から出土した土器を最新の年代測定法で科学調査したところ、240~260年という測定結果が出て、卑弥呼の没年とほぼ一致しました。これで、箸墓古墳=卑弥呼墓、倭迹迹日百襲姫=卑弥呼説が俄然湧きたったのです。
ただ、この年代測定法の分析精度に疑問を持つ学者も多く、さらに測定した土器があくまで箸墓古墳周辺から出土したものであるということから、考古学的には確定に至っていません。
しかし、こうした見地から、箸墓古墳が卑弥呼の墓であり、倭迹迹日百襲姫が卑弥呼のモデルである可能性は高まりました。でも、考古学的にはこれが限界ともいえます。
ここからは、文献の解読が必要となります。後編では『日本書紀』に記された倭迹迹日百襲姫にまつわる記述から、彼女の正体に迫ってみましょう。
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