平安時代の海賊王!日本を揺るがす大反乱を起こした大海賊・藤原純友の野望:2ページ目
ミイラ取りがミイラに?海賊になった純友の元へ……。
「……俺たちが、好きでこんな暮らしをしていると思っているのか」
伊予国へ赴任した純友は、瀬戸内海に跳梁跋扈する海賊たちを次々に追捕しましたが、次第に「なぜ彼らは海賊行為に走るのか」を考えるようになります。
「誰が人を殺して血を流し、役人に追われながら暮らしたいと思うものか」
「まっとうに生きていけるなら、そもそもこんな事はしていない」
「いくら汗水流して働いたところで、お上がすべて奪っちまう。だったら、俺たちが奪ったっていいじゃないか」
口々に出て来る政治への不満……こうした声に影響されたのか、承平5年(935年)になって元名が伊予守の任期を終えて帰京しても、純友は帰りませんでした。
「よぅし野郎ども!今日もいっちょう稼ごうぜ!」
「「「おおぅ……っ!」」」
海賊退治で得たノウハウを遺憾なく発揮した純友は海賊社会でのし上がり、承平6年(936年)ごろにはひとかどの頭領として知られるようになります。
「生きてここを通りたければ、相応の『誠意』ってモンを見せてもらおうか。」
「この先には『海賊』どもがウヨウヨしているから、俺たちが護衛してやろう。もちろん、感謝の『気持ち』を忘れるなよ?」
……とまぁそんな具合に、富める者からは奪う一方、貧しい者に分け与え……たのかは定かではありませんが、とにかく海賊稼業に勤しんでいたある日、備前国(現:岡山県東部)を縄張りとしていた藤原文元(ふじわらの ふみもと)から使者がやって来ます。
この文元、かねて備前の国司を望んでいましたが、叶わず藤原子高(ふじわらの さねたか。同族かは不詳)にお株を奪われ、不遇の日々を過ごしていました。
で、その文元からの用件は「一緒に挙兵しねぇか」とのこと。国司の館を襲撃しようと言うのです。
「海賊王に、俺はなる!」朝廷に叛旗をひるがえした純友
これまで、ケチな海賊稼業に手を染めて、追捕の役人が来たら逃げたり賄賂で懐柔したりしていた純友ですが、もし国司に手を出せば、それは紛れもなく朝廷に対する叛逆であり、もう後には退けなくなります。
「……そんな事をしたら、流石に朝廷も黙っていないぞ?」
「そンなこたぁ百も承知さ。でもな、考えてもみろよ。このままセコセコと稼いで、役人連中に賄賂を貢いで……結局、小役人だったころと一緒じゃないか?」
「まぁ……そうだな」
「人間、生まれたら一度は必ず死ぬんだ。同じ死ぬなら、小役人としてよりも、朝廷に叛旗を翻した大悪人として……そうとも、海賊王になろうじゃないか!」
「海賊王か……」
「そうさ。一度きりの人生だ。上手く行けば王になれるか、あるいは朝廷から招安(しょうあん)の話があるかも知れない。やってみる価値はあるだろう?」
招安とは、鎮圧しきれない賊徒に対して朝廷が「官位や褒美などやるから、大人しくしてくれ」というもので、お隣の中国大陸などでは、強大な賊徒がそれで立身出世を果たした例が多くあります。
死んでもともと、成功すれば王か出世か……どう転んでも悪くはないと読んだ純友は「海賊王に、俺はなる!」とばかりに挙兵。
天慶2年(939年)12月、純友は文元と共に、備前の国司・藤原子高を攻略。その勢いで播磨国(現:兵庫県南部)の島田惟幹(しまだの これもと)の館も攻め落とし、大いに気勢を上げたのでした。