平安時代の海賊王!日本を揺るがす大反乱を起こした大海賊・藤原純友の野望:3ページ目
朝廷の混乱に乗じて、瀬戸内海の覇者となる
「陛下!一大事にございまする!」
純友挙兵の急報がもたらされた頃、関東では平将門が大暴れしており、東西同時の反乱に、朝廷は上を下への大混乱でした。
「どうしよう!?」
……どうすると言っても、東西同時に討伐する兵力の余裕はありませんから、まずは関東の将門を討伐することにして、純友らに招安を呼びかけました。
「そなたを従五位下に叙する」
天慶3年(940年)1月、山陽道追捕使に任命された小野好古(おのの よしふる)は純友に官位を与え、また文元を備前介(すけ。国司のアシスタント的存在。守>介>掾)に任じました。
「やったぜ!」
(これで、とりあえずは大人しくしておいてくれよ)という朝廷のメッセージは百も承知でしたが、純友たちは貰うモノだけ貰っておいて、相変わらず海賊稼業は継続します。
「今は東国の将門で手一杯みたいだから、今の内に暴れ回っておけば、連中ふるえ上がって、もっと色々くれるかも知れねぇな!」
「よっしゃ!行くぜ!」
調子に乗って淡路国(現:兵庫県淡路島)、讃岐国(現:香川県)の国府も攻略し、瀬戸内海のほぼ全域を掌握。西国の要衝である大宰府(だざいふ)まで脅かすようになったのでした。
「わっはっは!これで俺も海賊王だ……」
ここまで快進撃を続けた純友は高笑いが止まらなかったでしょうが、これが彼のピークでした。
勇猛果敢に抵抗するも……海賊王の最期
さて、関東全域に猛威を奮い、いっときは新王朝の樹立かと思われた平将門ですが、平貞盛(たいらの さだもり)や藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)らによってあっけなく討ち取られてしまいます。
「さぁ、これで西国の海賊どもを一網打尽じゃ!」
天慶3年(940年)2月、朝廷は小野好古を総大将として、次官に源経基(みなもとの つねもと)、主典に藤原慶幸(ふじわらの よしゆき)と大蔵春実(おおくらの はるざね)という本気メンバーで大軍を動員。
「新皇(将門)はまぐれの流れ矢で命を落としたそうだが、海風は我らの味方……野郎ども、負けンじゃねぇぞ!」
「「「おおぅ……っ!」」」
純友は勇猛果敢な海賊たちの総力を結集、瀬戸内海を股にかけた抵抗戦を繰り広げること1年以上、勝負は年も明けた天慶4年(941年)にまでもつれ込みました。
「ちくしょう、後顧の憂いがなくなったら、もう招安はないか……」
「こうなったら、後は実力で『王位』を死守するしかねぇな!」
決死の覚悟もむなしく、同年5月に博多湾の海戦で惨敗を喫した純友は本拠地の伊予国へ逃げ込みましたが、警固使の橘遠保(たちばなの とおやす)によって討ち取られてしまったのでした。
純友の死については諸説あり、生け捕られて獄中で死んだとも処刑されたとも言われ、また後世で言う「判官びいき」の心情から「実は生き延びて、南海の彼方へ逃げ去った」という話もあります。