これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【前編】:3ページ目
五男・源希義
頼朝、義門と同じ母から産まれた希義(まれよし)は平治の乱で父と兄たちが亡くなった後、母方の伯父に捕まってしまい、永暦元年(1160)に10歳にも満たない年齢で土佐へ流刑となります。ちなみに頼朝も同年に伊豆へ流されています。
また土佐にちなんで、希義は土佐冠者(とさのかじゃ)と呼ばれていました。
その後、治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、希義も便乗して挙兵する気ではないかと疑いがかけられたことにより、平氏が希義追討令を出します。
希義は平氏からの追討を回避するために、自身に味方する夜須行宗の元へ行くことを計画します。
しかし希義の計画は平氏に洩れており、蓮池家綱と平田俊遠からの奇襲により希義は討ち死にしました。
頼朝は希義の死を非常に悲しみ、家綱と俊遠を討ち取った後に源氏ゆかりの荘園である介良荘(現在の高知県高知市介良)に、西養寺を建て供養しました。
六男・源範頼
義朝の六男範頼(のりより)は遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)にて誕生したので、蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれていました。
頼朝挙兵後、範頼は寿永2年(1183)から平氏打倒のため活動を行い、寿永3年(1184)から木曽義仲を追討する軍の大将軍として約3万の大軍を指揮します。また、同年の一ノ谷の合戦では主力を率いて敵を引き付け、その隙に弟の義経が奇襲を仕掛けたことで平氏に勝利しました。
平氏滅亡後は頼朝の言いつけを守り、事あるごとに報告を怠らなかったことから、その忠実ぶりを評されました。また、文治5年(1189)の奥州藤原氏を滅亡に追い込んだ奥州合戦に頼朝と共に出陣しています。
しかし、建久4年(1193)での曽我兄弟の仇討で頼朝が討たれた誤報が流れた際、範頼は夫の死に嘆く北条政子に対して誤解を招く発言をしてしまいます。そのことをきっかけに範頼は謀反の疑いがあるとして、伊豆国の修善寺へ幽閉となりました。
その後は謀殺又は自害したといわれています。