これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【前編】
鎌倉幕府を開き、武家政権の樹立を果たした源氏武者、源頼朝。後世にまで影響を及ぼした偉大なる功績を頼朝は残したものの、落馬したことが原因で亡くなるという不慮の最後を迎えています。
また、頼朝の8人いる兄弟も頼朝同様に不慮の最後や悲運の最後を迎えていました(頼朝は源義朝の三男)。
今回は頼朝の兄弟たちが送った様々な最後をご紹介します。
長男・源義平
源義朝の長男として産まれた義平は久寿2年(1155)に起きた大蔵合戦に15歳で出陣。この合戦で義平は若さを物ともしない勇猛さで、自身の叔父・源義賢(みなもとの-よしかた)と義賢の舅に当たる秩父重隆を討ち取る活躍を見せます。
これ以降、義平は鎌倉の剛勇な源氏の長男という意味合いで「鎌倉悪元太」と呼ばれるようになりました。
やがて、保元元年(1156)の保元の乱を経て源氏を取り巻く政治情勢が大きく変わっていきました。
そして平治元年(1159)、父義朝は藤原信頼と共に当時の天皇、二条天皇を擁立するためにクーデターを敢行。
二条天皇を擁立したのはいいものの、平清盛の元へ脱走した二条天皇は義朝たちの追討命令を出したことで、平清盛と戦うことになります(平治の乱)。
平治の乱には義平も参加し、鎌倉悪元太の名に恥じぬ奮戦ぶりを見せましたが、兵力差には勝てず敗北。義平は義朝たちと東国へ落ち延びます。
落ち延びている途中で父と離れ東国を目指しましたが、父の死亡を知ると清盛の暗殺を行うために京都へ反転しました。
その後は平氏に捕らえられ、永暦元年(1160)に20歳で六条河原にて処刑されました。