これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【前編】:2ページ目
次男・源朝長
康治2年(1143)に誕生した朝長(ともなが)は相模国松田に領地を持っていたので、松田冠者(まつだのかじゃ:冠者は若者の意)又は松田殿と呼ばれていました。
朝長は平治元年(1159)に、平治の乱が勃発すると父と兄義平と共に出陣します。そして敗北すると、兄たちと東国へ落ち延びます。
しかし、その途中で比叡山の僧兵が行く手を邪魔したため戦うことになり、朝長は左足に矢を受けてしまいました。
僧兵たちを退けた一行は別々で東国へ向かうため義平は東山道、義朝は東海道で東国へ向かいます。朝長は父と共に行くつもりでしたが、矢傷の悪化を理由に拒みました。
そして捕らえられるより死を望んだ朝長は、父の手によって16歳の若さで幕を閉じました。
また能の演目である修羅能(武将が主人公の能)には朝長を用いた「朝長」があります。
四男・源義門
頼朝の弟で義朝の四男にあたる義門(よしかど)は頼朝と同じ母である由良御前から産まれました。
平治の乱の前に官職を授かっていた義門でしたが、平治の乱の最中で討死したとされています。
没年が不明であるので亡くなった年齢は推測でしかありませんが、頼朝が平治の乱では13歳だったので、それ以下と断定できます。