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戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その2】

戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その2】:3ページ目

斎藤義龍に真っ向から対峙した快川の気骨

「永禄別伝の乱」の最中、快川は、義龍に一歩も引くことなく渡り合っています。

国外退去した快川への帰国の命に対し、

「美濃の太守といえども義龍は一国の主にすぎない。それに対し、私たち僧侶は宇宙全体に連なる真の道を伝える師匠。

その広さと比べれば、一国など狭すぎて比較にならない。それ故に私たちは帰らない」

と、凛とした返書を送ったのです。

正義正論のためには「一国の太守など、なにするものぞ!」という快川の気骨がよく表れている名言として知られています。

この「永禄別伝の乱」で快川の名声は響き渡り、1561(永禄4)年、本山妙心寺に47世住持として就任、さらに恵林寺へ再住することとなったのです。

斎藤龍興を救うため、再び信玄のもとに

信玄は、快川を再び恵林寺に迎えるにあたり、大幅な寺領を加増、自身の位牌を安置するという最大限の礼を払いました。

快川が信玄のもとに再び赴いたのは、義龍亡き後の逼迫した美濃の情勢も反映していたようです。

父道三を滅ぼし美濃を掌握した義龍は、優秀な戦国大名で存命の間、信長の美濃侵攻はことごとく失敗しました。

しかし、義龍の跡を継いだ龍興は、まだ若く、信長の相次ぐ侵攻にさらされることとなります。

快川は、龍興を救うため武田氏との軍事同盟が必要と、信玄の要望に応え恵林寺再住を快諾。

1565(永禄8)年前後には信玄との同盟関係が成立したのです。

4ページ目 信長に士気の緩みをつかれ龍興は降伏

 

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