源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【一】:3ページ目
発せられた源氏討伐令
「……やっぱり、結婚なんて認めるんじゃなかった!」
時政が後悔したのは治承四1180年。以仁王(もちひとおう。後白河法皇の第三皇子)の令旨(りょうじ。命令書)を、源新宮十郎行家(しんぐう じゅうろうゆきいえ。頼朝の叔父)が持ってきた時のことです。
「殿下は権勢におごり高ぶる平清盛(たいらの きよもり)はじめ平家一門を討ち滅ぼすべしと仰せにございますれば……佐殿、すぐにも兵をお挙げ下され!」
その場でこそ愛想よく対応した頼朝ですが、何の準備も(恐らく覚悟も)なかったため、様子見を決め込んで(≒何もせずに)いたところ、ほどなくして以仁王らは鎮圧されてしまいました。
しかし、これで「やれやれ」とは行かず、それまで平治の乱(平時元1160年)以来、およそ20年の雌伏を強いられてきた源氏の決起を懸念した清盛によって、叛乱の芽を摘み取っておくよう、各地の源氏を討伐するよう命令が下ります。
もちろん頼朝も討伐対象としてリストアップされており、その姻族である北条家も、他人事ではすまされません。
「こんな事なら、たとえ政子を殺してでも絶縁しておけば……」
「父上!」
殺せるものなら殺してみよ……そう言わんばかりの政子にピシャリと叱られ、時政は宗時、義時と三人で善後策を協議します。
「やはり、伊東殿と合力の上で佐殿を討ち果たし、その首級(しるし)を京へ送るしか……」
「父上。平素さんざん仲良くしておいて、いざ都合が悪くなったら裏切るような卑怯の振る舞いに及べば、仮令(たとい)その場の命は助かっても、北条一族を笑わぬ者はおりますまい」
「左様。死のうは一定(いちじょう)、古来『自反而縮雖千萬人吾往矣(自らを省みてなおくんば、千万人といえども我ゆかん)』と申します。こちらにやましい事がない以上、堂々と戦ってこそ、命運も開けましょうぞ!」
血気盛んな若武者たちの正論に気圧される時政に、トドメの政子が畳みかけます。
「父上……敵は私よりもやさしゅうございましょうよ」
平清盛、何するものぞ……もちろん何の根拠もありませんが、娘にこうまで言われては引き下がれません。肚をくくった時政は一族郎党を引き連れ、頼朝の元へと駆けつけたのでした。
※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫、2019年10月
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年12月
阿部猛『教養の日本史 鎌倉武士の世界』東京堂出版、1994年1月
石井進『鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて』平凡社、2002年11月