源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【一】:2ページ目
姉の駆け落ちと「運命」の伴侶
北条義時が生まれたのは平安末期の長寛元1163年、伊豆国田方郡北条(現:静岡県伊豆の国市)の土豪・北条四郎時政の次男として誕生しました。
北条氏は桓武平氏の末裔を自称し、曽祖父・北条伊豆介時家(いずのすけ ときいえ)の代ごろに伊豆国へ土着、地名の北条を名字としたと見られています。
【北条氏 略系図】
時家―時方―時政―義時
※諸説あり。
母は同国伊東(現:静岡県伊東市)の土豪・伊東次郎祐親(いとう じろうすけちか)の娘、兄の北条三郎宗時(さぶろうむねとき。生年不詳)、姉の北条政子(保元二1157年生まれ)と共に成長しました。
※後に北条五郎時連(ごろうときつら。安元元1175年生まれ)、北条政範(まさのり。文治五1189年)、阿波局(あわのつぼね。生年不詳)、北条時子(ときこ。生年不詳)らが生まれていますが、政範以下は継母(牧の方)の子です。
次男である義時は北条家を継がず、はじめ江間小四郎(えま こしろう)と称します。江間とは田方郡にある地名で、そこを所領として与えられ、また四郎(時政)の子であるため、頭に「小」をつけたものと考えられます。
※ただし説明の便宜上、原則的に「北条義時」で統一します。
幼少期についてはあまり詳しい記録がないものの、義時が15~16歳のころ(治承元1177年~同二1178年)、姉の政子が蛭島(ひるがしま。蛭ヶ島、蛭ヶ小島とも。現:伊豆の国市)の流罪人・前兵衛佐(さきのひょうゑのすけ)源頼朝と駆け落ちしました。
「やっぱり姉上、流石だなぁ」
「左様……父上。こうなってはあの二人を認めてやっては?」
「お前たち、何を呑気なことを!佐殿(すけどの。前兵衛佐≒源頼朝)は重罪人ぞ、下手に縁組などして、朝廷から目をつけられては……」
そうは言っても、一度こうと決めたら梃子でも動かぬ政子のこと、結局は根負けして、頼朝との結婚を認めてしまうのでした。
「まぁ……今は罪人でも、元をただせば源氏の嫡流……そのブランドで我が家にも箔がつく、とでも思うことにしよう……」
渋々だった時政ですが、治承二1178年に初孫(政子と頼朝の長女・大姫)も生まれると、それはもう目に入れても痛くない可愛がりよう。このまま平和で幸せな日々が続けばいいな……みんなそう思っていたのですが……。
※その大姫のエピソードはこちら