平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(上)
源頼朝について語る時、武家政権の樹立という世界史上まれな壮挙の反面、その孤高ゆえに得られなかった「家庭の温かみ」がよく言及されます。
「武士の世」を盤石たらしめるべく、弟・義経公をはじめとする一族や有力な御家人たちを次々と粛清、後白河法皇をはじめとする朝廷勢力と繰り広げた政争から、冷徹で酷薄な人物に描かれがちな頼朝公。
今回はそんな頼朝公の政略に翻弄された彼の長女・大姫(おおひめ)の生涯を紹介したいと思います。
大姫の出生
大姫とは「長女」程度の意味で、その本名については一幡(いちまん)ではないか、とする説もあるものの、確証はありません。頼朝公が挙兵した治承四・1180年に数えで3歳でしたから、治承二・1178年の生まれとなります。
伊豆国・蛭島(ひるがしま)に流罪となっていた頼朝公が北条政子との間にもうけた娘と言われていますが、政子の懐妊を知った時政は怒り狂って両者を引き離し、政子を伊豆の目代(もくだい。代官)である山木兼隆に嫁がせようとします。
当時、根無し草であった頼朝公はあっさり諦めたそうですが、政子は諦めることなく婚礼直前に脱走。吹き荒ぶ嵐の中、頼朝公の元へ駆けつけた政子の強じょ……一途さに根負けした時政は(渋々)二人の結婚を認めたのでした。
かくして大姫は生まれましたが、果たしてそれが良かったのかどうかは、当人のみぞ知るところです。
木曽義高との出会い・儚い幸せ
大姫が許婚・木曽義高と出会ったのは寿永二・1183年のこと。当時、争っていた父親同士(頼朝公と、信州の豪族・木曽義仲)が和睦の印として互いの子である大姫と義高の結婚を決め、義高が鎌倉にやって来たのでした。
当時、大姫は6歳、義高は10歳。その実態は父親同士の政略による「人質」でしたが、大姫にとっては共に将来を夢見る大切な「パートナー」だったのでしょう。
義高と共に過ごした日々は、大姫にとって最も幸せな時期でしたが、そう長くは続きませんでした。