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平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(上)

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義高・決死の脱走劇

義高が鎌倉に来てから一年後、寿永三・1184年1月に木曽義仲が頼朝公に討たれると、頼朝公は「将来、父親の仇討ちを企むかも知れないから」と、義高の粛清を考えます。

しかし、身寄りもいない11歳の少年を一方的に殺せば外聞が悪い。

そこで、義高らに「わざと」計画をリークする事で彼の脱走を促し、その上で「謀叛の企みあり」として討つ事にしました。

頼朝公の策略は見事に成功、同年4月21日に大姫は侍女たちの協力を得て義高を鎌倉から脱出させ、義高は亡き父・木曽義仲の本拠地であった信州を目指します。

その時、大姫は義高に侍女の服を着せ、馬の蹄に綿を巻いて足音を消し、身代わりに同い年の海野幸氏に時間稼ぎをさせるなど、義高を守りたい大姫の悲痛な想いが伝わります。

かくして義高を見送った大姫は

「姫公周章して魂を銷(消)さしめたまふ(※吾妻鏡、元暦元1184年4月21日条)」

という悲しみぶりで、ただただ義高の無事を祈り続ける心細さが察せられます。

ほどなく義高の脱走が発覚、頼朝公は「待ってました」とばかりに追手を繰り出し、果たして5日後の4月26日、義高は武州・入間河原(現:埼玉県入間川流域)で斬られてしまいました。

最愛の人を失って

最愛の許婚を殺されるだけでも7歳の少女にはトラウマ級のショックなのに、義高を斬った張本人・藤内光澄が、わざわざ御所に義高の首級を持ち込み、ドヤ顔で手柄を宣言する始末。

「この事密儀たりといへども姫公すでに漏れ聞かしめたまひ愁嘆の余りに漿水を断たしめたまふ」(吾妻鏡元暦元1184年4月26日条)

元々病弱だった大姫はそれ以来、水も満足に飲めないほど衰弱。

これには日ごろ頼朝公の理解者である政子もさすがに大激怒、頼朝公に猛抗議しました。

「義高を殺さねばならない事情は仕方ありませんが、女子供が暮らす御所に生首を持って乗り込んで来たあの男だけは許せません!(大意)」

自分の命令を忠実に果たした御家人を何とか守りたかった頼朝公もついに根負け、二か月後の6月27日に光澄は「御臺所(みだいどころ・頼朝公の妻=政子)の御憤りによつて(吾妻鏡、同日条)」斬首されてしまいます。

何とも理不尽な話ですが、下手人を斬って大姫の傷心が癒えるはずもなく、亡き義高を想い続ける長い余生が始まるのでした。

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