天下一の傾奇者?それともただのうつけ者?信長の甥・織田頼長の武勇伝【上】:2ページ目
関ヶ原合戦ではお留守番、手柄を立て損ねる
さて、天下一の傾奇者を目指して好き放題していた孫十郎ですが、いつまでもそんな事ばかりしてはいられません。
15歳(慶長元1596年)ごろに元服したと見られる孫十郎は、信長の覇業を受け継いだ豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)に仕え、改名に際してその子・豊臣秀頼(ひでより)の名前から「頼」の一文字を拝領。
父・長益から受け継いだ「長」の一文字と組み合わせて織田頼長(よりなが)と称しました。この名前には織田家が秀頼に忠誠を誓い、末永く豊臣家(政権)を支えるよう願いが込められていたようです。
しかし、ほどなく秀吉が亡くなると豊臣政権の屋台骨が揺らぎ始め、その隙に乗じて天下を窺う徳川家康(とくがわ いえやす)と、その野望を阻止せんと対抗する石田三成(いしだ みつなり)の政争が激化。
これが後に「天下分け目」の関ヶ原合戦(慶長五1600年)につながるのですが、孫十郎はこの歴史の大舞台に出陣していないようです。
「何で留守番なんだよ!俺に『無双』させろよ!」
そんな不満が聞こえて来そうですが、父としては大事な嫡男をなるべく危険な戦場に出させたくなかったのでしょう。
ちなみに、庶兄の源二郎は父と共に出陣。徳川家康率いる東軍に与して猛将・戸田武蔵守重政(とだ むさしのかみ しげまさ)父子を討ち取る大手柄を上げています。
※関ヶ原で活躍した庶兄・源二郎のエピソードはこちら
家督が継げなきゃ自力で家を興す!関ヶ原で活躍した信長の甥・織田長孝の武勇伝【上】
家督が継げなきゃ自力で家を興す!関ヶ原で活躍した信長の甥・織田長孝の武勇伝【下】
関ヶ原の戦功によって父は3万石(味舌藩)、源二郎は父と別に1万石(野村藩)の所領を与えられ、それぞれ大名となりました。
「ちぇっ、何だよ……俺だって出陣さえしていれば……」
活躍できたかも知れないチャンスを逃してしまった孫十郎は、源二郎への対抗心(逆恨み)から反・徳川の意思を固めていくのでした。
※参考文献:
桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年1月
戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年12月
家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』新人物往来社、1987年11月