戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【一】:2ページ目
相次ぐ戦さと島津氏の侵攻
さて、そんな新婚生活などお構いなしに水を差すのが乱世の習い……という訳で、正親は相次ぐ戦さに駆り出されます。
天正八1580年は盟友の甲斐宗運(かい そううん)を救援するべく旦過瀬(たんがのせ。現:熊本県熊本市)で城親賢(じょう ちかかた)と名和顕孝(なわ あきたか)らを撃退。大いに武功を立てました。
翌天正九1581年には薩摩国(現:鹿児島県西部)の大大名・島津(しまづ)氏に降伏し、その先鋒とされたかつての盟友・相良義陽(さがら よしひ)を響ヶ原(ひびきがはら。現:熊本県宇城市)で撃退、再び甲斐宗運の窮地を救います。
「やれやれ……ずっと騎馬でおるから、鞍の冷める暇がないわい」
ところで木山氏は肥前の戦国大名・竜造寺(りゅうぞうじ)氏に臣従(※厳密には竜造寺氏の被官である阿蘇氏に臣従)していましたが、天正十二1584年3月に沖田畷(おきたなわて。現:長崎県島原市)で主君・竜造寺隆信(たかのぶ)が討死。
竜造寺の家督を継いだ隆信の嫡男・竜造寺政家(まさいえ)は、それまで島津氏と対決姿勢を示していた父の方針を一変、従属する意向を明らかにします。
「何と弱腰な!おめおめ島津に屈しては、亡き御屋形様に申し訳が立たぬではないか!」
これをよしとしない正親らは政家を見限り、木山本家の木山左近大夫惟久(さこんのたいふ これひさ。木山城主)ともども、縁戚関係にあった本渡(ほんど。現:熊本県天草市)城主の天草種元(あまくさ たねもと)と連携。島津氏に対して徹底抗戦の意志を示しました。
正親は惟久から赤井城(現:熊本県益城町)の守備を任されますが、天正十三1585年に島津氏の侵攻を受け、善戦するもあえなく陥落。
「おのれ島津……今はこれまで!」
惟久は木山城から脱出(その後、上洛して連歌師として活躍)。正親も敵の手に渡さぬよう、赤井城に火を放ち、本渡城へ落ち延びていくのでした。
※参考文献:
国史研究会 編『国史叢書. 將軍記二 續撰清正記』国史研究会、1916年
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年
松田唯雄『天草温故』日本談義社、1956年