モンゴルに自由と統一を!日本人と共に民族独立を目指した悲劇の英雄・バボージャブの戦い【五】:2ページ目
中華民国軍と戦いながら、首都フレーを目指す
「いざフレー、ボグド=ハーンのお膝元へ……!」
民国元1912年8月に出発したバボージャブ一行は、大モンゴル国に参加させまいと妨害する(清国に代わってほぼ全土を掌握している)中華民国と交戦しながら、じわじわと北西を目指します。
(※一説には「夜陰に乗じた逃亡した」とも言われますが、もしも逃亡するなら数十名単位の兵士を率いては却って不利となりますから、ここでは「堂々と出発した」説を採ります)
一行はナイマン旗(現:内モンゴル自治区通遼市)、ジャロード旗(同)、アルホルチン旗(同)、東西ウジュムチン旗(同自治区シリンゴル盟)、アウガ旗(同)、ホチト旗(同)を通過。
ひとまずは安全を確保できたこと、そして戦いながらの旅程に疲れてしまった妻子をホチト旗の信用できる者に預け、更に先を急ぎました。
「日露戦争でロシアのコサック騎兵を相手に大立ち回りを演じた南モンゴルの英雄バボージャブが、大モンゴル国を目指してやって来る!」
バボージャブの噂を聞きつけた道中のモンゴル族は、彼の声望を慕って次々と参集。出発当初は数十名だったバボージャブたちが、いつしか二千人を擁する一軍に膨れ上がっていました。
この報せは大モンゴル国の首都フレーにまで届き、心強い援軍に喜んだボグド=ハーンは、軍務大臣のアルホア(阿尓花)公ナスンアルビジフ(那遜阿尓畢吉呼)を迎えに出します。
また、同時期に開魯鎮(かいろちん。現:内モンゴル自治区通遼市)で蜂起した烏泰王(うたいおう)への援軍として、道中で兵の徴募もさせました。
「……で、貴殿がバボージャブか。南モンゴルで少しは鳴らしたらしいが、辺境の馬賊上がりが中央(北モンゴル)でどれだけ通用するだろうな?」
自分より優れた人材をあまり喜ばなかったナスンアルビジフは、バボージャブの台頭を予防するべく、側近のシャオパエンパタ(小巴彦哈達)と同格に扱うことで、ライバル心を煽ろうとしました。
(やれどっちが上だの下だの、まったくバカバカしい……しかし、すべては大モンゴル国のため、我らが大ハーンのため。ここは辛抱だ……!)
ナスンアルビジフと合流したバボージャブは勅命によって南方方面営長(大隊長)に任ぜられ、開魯鎮の烏泰王に加勢して中華民国軍と交戦します。しかし、ここでしばしば内輪揉めが発生し、戦術性の違いから開魯鎮は陥落してしまいました。
「……もうアンタらとは一緒にやれねぇ!こっからフレーまでは独自に行動させて貰うぞ!」
バボージャブ軍は自前の兵を率いてナスンアルビジフの本隊から離脱。その後も各地を転戦しながら12月にフレーへ到着すると、さっそくボグド=ハーンに召し出されました。
「そなたがバボージャブか……赫々たる武勲は聞き及んでおる。南モンゴルを開放し、南北統一の大望を果たす扶(たす)けとて、まこと恃みにしておるぞ……」
「ははぁ……微力ながら粉骨砕身、我らが大モンゴル国の弥栄に奉公致します……!」
晴れて将軍に叙任されたバボージャブは、ホチト旗の家族を呼び寄せて身柄を確保。後顧の憂いなく翌年からの出征に備えるのでした。