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一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】

一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】:2ページ目

災難続きの元治元年、禁門の変で朝敵にされ、馬関戦争で欧米列強に敗れ……

明けて元治元1864年7月19日、京都を逐われた長州勢力が巻き返しを図ろうと家老の福原越後守元僴(ふくはら えちごのかみもとたけ)が来島又兵衛(きじま またべゑ)や久坂玄瑞(くさか げんずい)らと共に決起。

御所の門前(蛤御門、禁門)を主戦場としたことから後に「蛤御門の変(禁門の変)」と呼ばれたこのクーデターは、会津&薩摩の両藩によって鎮圧され、長州藩は「朝敵」とされてしまいます。

朝敵すなわち賊軍ですが、この日本国において天朝様=天皇陛下と朝廷≒日本全国を敵に回した者が(赦される以外で)生き延びた例しはなく、まさに絶体絶命の窮地です。

かくして江戸幕府の主導によって長州征伐の段取りが進められる中、同年8月5日~7日にかけて、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強4ヶ国連合との戦争(馬関戦争)が勃発。完膚なきまでに叩きのめされた挙げ句、馬関海峡の要衝である彦島(ひこしま。現:山口県下関市)を占領されてしまいます。

前回は(占領されたが)引き上げてくれたからすぐ取り戻せたものの、今度は賠償の一環として租借(実質的な植民地化)するつもりのようで、彦島に強固な軍事基地でも置かれようものなら、馬関海峡を封鎖するどころか、逆に瀬戸内海の出入りを欧米列強に抑えられてしまいます。

「何としてでも、彦島だけは死守(奪還)しなければ!」

経幹は列強連合軍に対して彦島の返還交渉に臨みますが、関ケ原以来ずっと窮乏している長州藩は要求される賠償金も満足に支払えない上、奪われた領土は無償で返還せよ、なんて条件では、いくら何でも無理があります。

そこへ「どけ、俺が話す」とばかり出て来たのが、奇兵隊の創設者として知られる高杉晋作(たかすぎ しんさく)。彼は長州藩家老・宍戸備前守親基(ししど びぜんのかみちかもと)の養子(宍戸刑部-ぎょうぶ)と身分を騙って連合軍との交渉に臨みました。

3ページ目 ひとまず窮地を切り抜けた長州藩だが…

 

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