虚無僧がイケてる?江戸時代に実際にあったファッションとしての虚無僧スタイル!鈴木春信の魅力 その5(完):2ページ目
実際に“助六”の衣装と同じく小口の紋付を着流し、鮫鞘の一腰に印籠1つ、下駄を履いて吉原大門を入る人物もいました。両側の茶屋の女房が出てきて、「そりやこそ福神様の御出」と騒いだ故、いつしかこの姿を「今助六」というようになったといいます。
鈴木春信も「風流おどり八景 夜雨の助六」という、春信らしい“助六”を描いた作品を残しています。
江戸の美意識
鈴木春信が『風俗四季哥仙』を描いていた時代は、江戸の町人文化が豊かに花開いた時期でした。「粋」や「いなせ」、「通」などの江戸の美意識が追求された頃です。
富める者たちは吉原に通って途方も無い大金を使い、または歌舞伎や文楽のほか俳諧や能、踊りや芸事などにも夢中になりました。
俳諧の世界では、旗本や豪商などが金に糸目をつけず、浮世絵に多色摺りという画期的な技術を開発し、飛躍的に浮世絵の世界を発展させて豪華な絵暦交換会を行いました。鈴木春信も当時の知識人をパトロンとして浮世絵をの芸術性を高めていったのです。
歌舞伎と浮世絵の関係は強く、江戸の庶民たちも浮世絵を買い求め、憧れたり真似をしたりして楽しみました。
そんな中でも歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』や『曾我もの』、『助六』などが大人気を泊した博したのは何故でしょうか。
この3つの作品に共通するのは「仇(あだ)討ち」です。
恋人が殺されたから復讐する、というのは「仇討ち」とは言いません。基本的には武士階級にのみ、父母か兄もしくはそれと同等以上の親族が殺害された場合、「仇討ち」は幕府によって認められていました。