悲しき定め…戦国時代に将来を期待されるも若くして亡くなった3人の嫡男たち:2ページ目
父から覇業を託されていた織田信忠
2人目は織田信忠です。
信忠は織田信長の嫡男として生まれますが、顔が奇妙だったことから幼名は奇妙丸でした。
そんな幼名をつけられても信長の後継者として育てられ、元服する前から戦の空気を吸ったり、雑事を一切やらなかったりと厚待遇でした。
元服後は頭角を現し、本願寺との石山合戦や長島一向一揆を経て多彩な軍略や将としての器が備わっていきます。そして天正3年(1575)には家督を譲られ織田家当主となります。
その後は天正5年(1577)、松永久秀を討った信貴山の戦いや天正10年(1582)の甲州征伐では総大将を務めます。
特に甲州征伐は信長の本隊が来る前に武田勝頼を自害させたので、その武才を信長は褒め称え天下を譲る意志を示しました。
父から名実ともに今後を期待されていた信忠でしたが、同年に起きた本能寺の変の際に自害し20代後半で生涯に幕を閉じてしまいます。
信忠の死後、織田家は清州会議により信忠の嫡男三法師を織田家当主に据えます。
しかし、信長と信忠を失った織田家では乱世に太刀打ちできず、豊臣秀吉の台頭により国力を弱めていく結果となりました。