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大阪の陣、徳川家康は豊臣家を滅ぼす気はなかった!?【どうする家康】

大阪の陣、徳川家康は豊臣家を滅ぼす気はなかった!?【どうする家康】

関が原合戦直後、徳川家康は豊臣秀頼の存在を憚り、いろいろなことをするのに、少し遠慮していた様子があります。ところが、1603(慶長8年)に、家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開くと、一気に立場が逆転しました。その2年後、家康は秀忠に征夷大将軍を譲り、天下に徳川の世であることを知らしめました。

 

以後、家康は豊臣政権の諸権限を吸収し、幕府の体制を盤石なものにしました。例えば、京などの主要都市の支配、佐渡金銀山などの鉱山の直轄化などはその良い例でしょう。

1614(慶長19)年、方広寺の鐘銘に「国家安康」という文言があり、家康は自分の名前が二つに分けられていると指摘、そのことがきっかけとなって、大坂冬の陣が起こります。

実際に戦闘が始まると、両軍は激しい戦いを繰り広げます。豊臣方についた真田信繁は、徳川方を相手に勝利するなど、両者の力は均衡していました。当初想定していなかった豊臣軍の奮闘により、やがて両軍は、和睦の機運が盛り上がってきます。和睦に際しては、それぞれ条件が出されましたが、最終的に、豊臣方が大阪城本丸などの埋め立て、惣構を破却すること、大阪城から浪人を退去させることなどで、合意に達しました。

通説では、この条件は、家康による陰謀で、後の豊臣家を滅ぼすための口実だったなどといわれていますが、どうやらその可能性は低く、むしろ、家康は元々、孫だった千姫の婿だった秀頼を滅ぼそうとは考えていなかった可能性の方が高いようです。

2ページ目 両家の意地とプライドの衝突で発生した戦

 

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