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大阪の陣、徳川家康は豊臣家を滅ぼす気はなかった!?【どうする家康】

大阪の陣、徳川家康は豊臣家を滅ぼす気はなかった!?【どうする家康】:2ページ目

家康は、大阪城の防御機能が失われれば、豊臣家は反旗を逆らってこなくなるだろうと考えていました。また牢人がいなくなれば、徳川家に抵抗する武力がなくなります。家康とすれば、それで十分でした。

ところが、大阪城の惣構の破却、堀の埋め立ては約束通り履行されましたが、牢人は退去しませんでした。さらに豊臣方の家臣の中には、反徳川のものも多く、隙があれば、挙兵を計画していました。こうした事情が重なり、ついに家康は、豊臣家を滅亡に追い込もうと考えました。

翌年5月、大阪夏の陣が起こりますが、今度は徳川方が圧倒的に戦いを有利に進めました。戦闘中、豊臣方は、後藤又兵衛、真田信繁といった主力となる武将を次々と失ってしまいます。

秀頼と淀殿は、ついに大阪城で自害し、豊臣家は滅亡してしまうのでした。

 

両者の関係性がここまでこじれてしまったのは、そもそも、豊臣家が、「牢人の退去」という和睦の条件を履行しなかったことに非がありました。豊臣家が、素直に、家康側の言うことを聞いていれば、一大名として存在できた可能性があります。ただ、豊臣家にも豊臣家としてのプライドがあり、一家臣でしかない価格の徳川家の意向に従う気はなかったのでしょう。大阪の陣は、そうした両家の、意地とプライドの衝突の結果発生した争いだったのかもしれません。

『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵)wikipediaより

参考

吉本健二『真説 大坂の陣』(2005 学研M文庫

岡田 秀文『大坂の陣』(2022 双葉文庫

 

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