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江戸時代に日本とロシアの架け橋となった海商・高田屋嘉兵衛の生涯 その1

江戸時代に日本とロシアの架け橋となった海商・高田屋嘉兵衛の生涯 その1

淡路島を出て兵庫へ

寛政2年(1790)、22歳になるとついに嘉兵衛は島を出て、兵庫で廻船問屋を営む親戚の堺屋喜兵衛の元に身を寄せます。嘉兵衛は酷いいじめを受けた島での生活から一転、喜兵衛をはじめとする優しい人々の中で海運業に従事する事になり、伊丹・灘の酒を江戸に運ぶ樽廻船の水主(乗組員)になります。

水主のキャリアは誰しも下っ端から始まりますが、才能のあった嘉兵衛は普通何年もかかる表仕(航海士)の仕事に約1年という異例のスピードで抜擢。いじめられた経験から、誰にでも分け隔てなく優しく、人徳もあった嘉兵衛は3年後には25歳の若さで船頭(船長)を任されるようになりました。

廻船問屋「高田屋」始動!

寛政7年(1795)、嘉兵衛は5人の弟たちに大胆な提案をします。その提案とは、兄弟6人で北前船を作って海運業を始めようという内容。

北前船というのは、大坂から日本海側を北上して蝦夷地(北海道)までを結んだ当時の大型船です。乗りこなすのも難しく、船乗りの憧れでした。弟たちは賛同し、嘉兵衛率いる廻船問屋「高田屋」が始まったのです。

その2へつづく

参考文献:生田美智子「只天下のためを存おり候 高田屋嘉兵衛 」ミネルヴァ書房

 
 

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