そんな理不尽な!しょうもない理由で改名させられた鎌倉幕府の御家人・北条時連のエピソード:2ページ目
将軍御所の蹴鞠大会にて
時は鎌倉時代、亡き頼朝公の後継者として将軍職についた嫡男・源頼家(みなもとの よりいえ)公は政務を怠って蹴鞠や歌舞音曲に興じ、都かぶれや諂(へつらい)者を取り巻いてわがまま放題の振舞いが目立ち、心ある御家人たちは胸を痛めていました。
そんな建仁二1202年6月25日、将軍の御所で蹴鞠大会が開催された時のこと。大会前に夕立があって、すぐにやんだものの庭の元木(※1)がぐしょぬれになってしまい、「これでは袖や裾が汚れてしまう」と皆が困っていました。
(※1)蹴鞠をプレイするコート(懸-かかり)の四隅に植える木で、鞠を蹴り上げる高さの基準となる。艮(うしとら。北東)に桜、巽(たつみ。南東)に柳、坤(ひつじさる。南西)に楓、乾(いぬい。北西)に松を配する。
すると、蹴鞠指南として京の都より下っていた壱岐判官平知康(いきのほうがん たいらのともやす)が庭に下り、自分の着ていた直垂(ひたたれ)や帷子(かたびら)を脱いで枝葉の水滴を拭いとりました。
その様子を見た一同は、さすがは都人の「逸興(いっきょう。すぐれて雅やか)」なる振舞いとほめそやし、申の剋(16:00±1時間ごろ)から大会を開始。頼家公はじめ名うての鞠足(まりあし。蹴鞠の名人)がフル出場し、時連も一緒になって、暗くなるまで大いに盛り上がったそうです。