そんな理不尽な!しょうもない理由で改名させられた鎌倉幕府の御家人・北条時連のエピソード:4ページ目
「許せない!」尼御台・北条政子の大激怒
そんな理不尽な改名に納得できないのが、頼朝公の未亡人で頼家公の母親、そして時連改め時房の姉である尼御台こと北条政子(ほうじょうの まさこ)。
「あの下郎、人の名前を何だと思っておいでかえ!」
都かぶれが君寵(※2)を嵩に、御家人たちを田舎者と侮って傍若無人の振舞い、それを許してしまう頼家公も頼家公です。
(※2)くんちょう。主君から寵愛(ちょうあい。依怙贔屓)を受けていること。
「……そもそもあの知康、かつて木曽義仲(きその よしなか)を唆して法住寺殿(ほうじゅうじどの≒そこに住んでいた後白河法皇猊下)を襲わしめたばかりか、その次は九郎殿(源義経)を誑かして亡き大殿(頼朝公)に謀叛を起こさせしめた天下の奸物(かんぶつ。悪人の意)……にもかかわらず、それを忘れて昵近(※3)を許すなど、いったい何をお考えか!」
(※3)じっきん。そば近くに仕えさせ、親しくすること。「じっこん」とも
親からもらった大切な名前を嘲り笑って改めさせる無情の仕打ち……このように人の心を土足で踏みにじる振舞いが度重なったため、やがて頼家公は将軍の座を追われ、元久元1204年7月18日、幽閉先の伊豆国・修善寺で暗殺されてしまいました。