江戸時代、餓死者放置は当たり前!?人肉をも食べた恐ろしい飢饉の真実【その1】:2ページ目
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天明の飢饉(1782〜1788年)
今度は北に移動し、奥州が発端となった天明の飢饉。奥州の冷害に浅間山の噴火による火山灰の被害が重なり発生しました。江戸時代でも類を見ない大飢饉と言われ、当時の人々も長い間語り継いだそうです。
特に陸奥の弘前藩における被害は甚大で、藩の人口の約1/3である10数万人が餓死し、逃散した者も多くいたので結果的に約半分にまで人口が落ち込んだといいます。飢餓とは恐ろしいもので、追い詰められた人々はまだ息のある家畜や家族をも殺し、その肉を食べたという話が伝わっています。
上杉鷹山の米沢藩や松平定信の白河藩など何とか被害を最小限に止めて切り抜けた藩もあった中、なぜ弘前藩でこんな悲劇が起こったかというと、不作であったにもかかわらず、藩の借金を返済するために徴税の手を全く緩めなかったため。
民の命運は藩政の方針次第で振り回されていたのです。この時は江戸だけでなく大坂でも打ちこわしが頻発しました。
ちなみに疫病の流行も同時に重なり、最終的にこの飢饉で全国で92万人以上の人口が失われる結果となってしまいました。
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