天下人・家康も恐れをなした!?妖刀「村正」と徳川家にまつわる因縁とは:3ページ目
家康の父・松平広忠
10歳で松平家を継承した千松丸ですが、なにぶん幼いために家中をまとめるのは難しく、13歳の時に大叔父である松平内膳信定らの謀略によって三河を追い出されてしまいました。
伊勢国(現:三重県)まで逃れた千松丸が数年間の放浪生活を強いられる中、献身的に支え続けたのが、先ほど登場した阿部大蔵定吉。
元々が忠臣である上に、千松丸の苦難が嫡男・弥七郎の不祥事に起因することもあって、どうにか三河に返り咲く算段に奔走したそうです。
やがて駿河・遠江の両州(現:伊豆半島を除く静岡県)を領する大大名・今川治部大輔義元(いまがわ じぶのだゆう よしもと)の支援を受けて三河に帰還できましたが、今川氏に対する従属を余儀なくされます。
西から織田氏の侵略に悩まされる一方、東から今川氏の突き上げと板挟みになりながら、松平氏が独立を取り戻すには、嫡男・竹千代(徳川家康)の成人まで、親子二代の歳月を要しました。
そんな苦労人の千松丸あらため松平三郎広忠(まつだいら さぶろう ひろただ)が亡くなったのは、天文十八1549年3月6日。
側近の岩松八弥(いわまつ はちや)が突如として発狂、身につけていた「村正」の脇差を抜いて広忠を刺し殺してしまいます。
そのまま逃走する岩松八弥を追い駆けて討ち取ったのが、前に清康を殺した阿部弥七郎正豊を討ち取った植村新六郎氏明。
二代にわたって主君の殺害に遭遇し、その犯人を討ち取るとは思わなかったでしょうね。
ちなみに広忠は享年24歳、遺された竹千代はたった7歳。
竹千代が数々の苦難を乗り越えて家康となり、松平家を再興して徳川家の天下を実現するまでの物語は、今なお聴く者の胸を打ち続けます。