天下人・家康も恐れをなした!?妖刀「村正」と徳川家にまつわる因縁とは:2ページ目
とは言え「火のないところに煙は立たぬ」と言うように、一度噂が立ってしまうと、疑いの目で見る者も少なからず出て来ます。
つまらぬ噂で多年の忠勤を汚された定吉は悔しくてならず、嫡男の弥七郎正豊(やしちろう まさとよ)に起請文(きしょうもん。神仏に対する誓約書)を託しました。
「もし、それがしが殺された場合、この起請文を提出して疑いを晴らして欲しい」
かくして12月5日の朝、本陣の近くで馬が暴れる騒ぎが起きました。
「すわ、父上が討たれたか!」
とっさの事で逆上した弥七郎は、起請文のことも忘れて愛刀「村正」を押っ取ると本陣に殴り込むなり、清康を斬り殺してしまいました。
「おのれ、乱心者!」
弥七郎は駆けつけた清康の近臣・植村新六郎氏明(うえむら しんろくろう うじあき)によって成敗されましたが、後から事件の顛末と弥七郎の勘違いを知らされた定吉の失意は、察するに余りあります。
大将を失った松平方は敗れ去り、これが後世にいう「守山崩れ」。清康が25歳という若さで亡くなった後、松平の家督は当時10歳の千松丸(せんまつまる。後の松平広忠)が継承しますが、それから長い「苦難の時代」を迎えるのでした。