身ぐるみ剥がされ奴隷に…戦国時代、秀吉の北条征伐の果てに悲劇的な末路を辿った「大福御前」の生涯
血で血を洗う戦国乱世にあって、非業の死を遂げるのは、男性に限ったことではありませんでした。
今回は豊臣秀吉の小田原征伐にともなって悲劇的な末路をたどった大福御前(おふくごぜん)を紹介したいと思います。
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北条氏邦と政略結婚
大福御前は天文10年(1541年)、後北条氏に仕える藤田康邦(ふじた やすくに。泰邦)と西福御前(さいふくごぜん)の間に誕生しました。
実名は不明ですが、ふく(福)だったと考えるのが自然です。大の字は長女を意味するものと考えられます。ただしその場合、西福御前(西に住んでいたお福?)と同じ名前になってしまいそうですが、果たしてどうだったのでしょうか。
藤田家は武蔵国天神山城(埼玉県長瀞町)を治める土豪でしたが、天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏康に敗れ、やがて降伏します。
氏康はまだ幼い四男の乙千代丸(後の北条氏邦)を大福御前と結婚させ、婿養子としました。
藤田の家督を譲らされた康邦は、嫡男の弥八郎(後の用土重連)を連れて用土城(埼玉県寄居町)へ移って用土氏と称し、失意の中で天文24年(1555年)に世を去ります。
大福御前は夫の氏邦と二人で天神山城に取り残され、相次いで世を去った両親の訃報に心を痛めたことでしょう。後に兄弟の重連も毒殺され、一人きりになってしまいました。
大福御前の子供たち
とは言え氏邦との夫婦仲は決して悪くなかったようで、二人の間には三人の子供が生まれています。
しかし長男の北条東国丸(とうごくまる)は天正11年(1583年)に早逝し、次男の北条亀丸(かめまる)は病弱で家督を継げなかったので、藤田家の菩提寺である正龍寺(埼玉県寄居町)で出家。鉄柱と号しました。
天正15年(1587年)に生まれた三男の北条光福丸(こうふくまる)に望みが託されたほか、生母不詳の北条庄三郎(しょうざぶろう)が生まれています。
……ということですが、大福御前は光福丸を生んだ時点で47歳。当時の感覚では相当な老齢でした。そこで近年の研究では、天文22年(1553年)生まれとする説もあるようです。
ちなみに東国丸が亡くなると、氏邦は長兄・北条氏政の次男である北条直定(なおさだ)を養子にとり、苗字を藤田から北条に戻しました。
鎌倉時代からの名族であった藤田の家名を、ただ一人で守り続ける大福御前の不安な胸中は、察するに余りあります。



