身ぐるみ剥がされ奴隷に…戦国時代、秀吉の北条征伐の果てに悲劇的な末路を辿った「大福御前」の生涯:2ページ目
北条征伐で氏邦と離別
やがて鉢形城(埼玉県寄居町)へ移り住んだ氏邦と大福御前。しかし天正18年(1590年)、鉢形城も豊臣秀吉による北条征伐の標的とされました。
鉢形城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸・浅野長政・本多忠勝・島田利正・鳥居元忠ら35,000の軍勢に包囲されてしまいます。
対して鉢形城に立て籠もる軍勢はおよそ3,000。十倍以上の戦力差を前にしながら、それでも一ヶ月にわたり徹底抗戦し、坂東武者の意地を見せました。
「最早これまで。女子供は早く落ちよ」
開城を決断した氏邦は大福御前らを脱出させ、自らは降伏・出家しています。この時に次男の鉄柱が修行していた正龍寺の住職・天叟(てんそう)は前田利家と旧知であったため、氏邦の助命嘆願に奔走したそうです。
そして主君の北条氏直(長兄・氏政嫡男)と共に高野山へ入り、後に能登国七尾(石川県七尾市)で前田家の庇護下におかれました。
身ぐるみ剥がされ、奴隷として売り飛ばされる
命からがら鉢形城を脱出した大福御前は、故郷の天神山城を目指します。しかし道中で落ち武者狩りに遭い、必死の抵抗も虚しく、身ぐるみすべて剥がされてしまいました。
先祖伝来の文書や財物ををことごとく奪われた挙げ句、正龍寺の伝承によると大福御前は奴隷として陸奥国久之村(不詳。福島県いわき市・久之浜町か?)に売り飛ばされてしまったそうです。
奴婢として大福御前がどのような暮らしを送り、どのような扱いを受けていたかについて、詳しいことはわかっていません。そんな不名誉なことは記録してほしくなかったでしょう。
それからしばらくして、秩父の馬商人が馬を仕入れに赴いた際、大福御前の生存を確認しました。
行方不明になっていた大福御前が生きていたということで、氏邦の旧臣らは急いで奥州へ出向き、大福御前を連れ戻した(買い戻した?)のです。
晴れて帰郷を果たした大福御前は、氏邦が生きていると知って恋しくは思ったものの、立場上再会は難しいと考えました。
そこで大福御前は正龍寺で出家して宗栄尼(そうえいに)と号し、北条主従の菩提を弔う暮らしを送ります。
大福御前が世を去ったのは文禄2年(1593年)5月10日。自害したと言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。

