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天下人・家康も恐れをなした!?妖刀「村正」と徳川家にまつわる因縁とは

天下人・家康も恐れをなした!?妖刀「村正」と徳川家にまつわる因縁とは

家康の嫡男・信康

祖父も父も「村正」によって失った家康ですが、嫡男である徳川三郎信康(とくがわ さぶろう のぶやす)もまた「村正」で失うことになります。

天正七1579年、信康に嫁いでいた織田信長の娘・徳姫(とくひめ)と、信康の母で家康の正室である築山殿(つきやまどの)の「嫁・姑戦争」がこじれ、母に味方する信康ともども頭にきた徳姫が父・信長に「信康と築山殿が武田勝頼と内通している!」と言いつけます。

これにキレた信長が、信康と築山殿の処刑を要求。信長を敵に回しては生きて行けない当時の家康は、泣く泣く二人を処刑したのでした。

信康が切腹する時、介錯人(首を斬り落とす係)には服部半蔵正成(はっとり はんぞう まさしげ)が指名されましたが、

「たとえ主君の命令といえども、主君のご嫡男に刃を向けることなどできません」

と辞退したため、検屍役(ちゃんと死んだか、遺体を確認する役)であった天方山城守道綱(あまかた やましろのかみ みちつな)が代行。

この時、道綱の差していた刀が、奇しくも「村正」だったのですが、後からそれを知った家康は、

【意訳】
「まったく不思議なことだ……村正は我が徳川家に怨みでもあるのだろうか。今後、村正の帯刀を禁止する。もし持っている者がおれば、すべて打ち捨てるように!」

【原文】
「さてもあやしき事もあるものかな。いかにしてこの作の当家に障ることかな。この後は差料の中に村正あれば皆取捨てよ」
※『徳川実記』より

と、度重なる因縁に恐れをなしたか、家臣たちに村正の所持・帯刀を禁ずるようになったということです。

終わりに

かくして「徳川に仇なす刀」として忌避されたことも手伝って、後世「妖刀」というイメージがついた村正ですが、その刃は時として「持つ者をして狂わしめる」と言われるのも納得の美しさ。

人を斬るため、殺すために産み出された刀としては、冥利に尽きることでしょう。

その後、二世紀半の歳月を経て挙兵した西郷隆盛はじめ維新の志士たちも「倒幕=打倒・徳川の象徴」として村正を好んだとされており、つくづく徳川家との浅からぬ因縁が偲ばれます。

 
 

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