美しき女武者!木曾義仲と共に戦いその最期を語り継いだ女武者・巴御前の生涯(上):2ページ目
巴のパートナー・木曾義仲の生い立ち
さて、ここで少し話がそれます。
義仲は木曾に土着していた人間ではなく、元は京の都から武蔵国(現:埼玉県+東京都)に赴任してきた源義賢(みなもとの よしかた)の嫡男として、久寿元1154年に生まれました。幼名は駒王丸(こまおうまる)と言います。
しかし駒王丸が2歳となった久寿二1155年、鎌倉から攻め込んで来た従兄(父の兄・源義朝の嫡男)である源義平(みなもとの よしひら。当時15歳)によって、父を殺されてしまいます(大蔵合戦)。
幼い駒王丸は悲しむ暇もなく、斎藤別当實盛(さいとうのべっとう さねもり)らによって保護され、乳母の実家である中原兼遠の元に匿われました。
言わば兼遠はじめ中原一族は駒王丸にとって「育ての家族」、信州木曾は「第二の故郷」となったのでした。
義仲、反平氏の挙兵へ
それから25年間、駒王丸は中原一族によって厳しくも大切に鍛え上げられ、駒王丸は元服して義仲と改名、立派な若武者に成長していました。
そして治承四1180年9月7日、義仲は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ。皇族による命令)を奉戴し、信州木曾の地より平家討伐の兵を挙げたのでした。
「奢れる平家、久しからず!」
この頃、朝廷で権勢を恣(ほしいまま)に奢り高ぶっていた平清盛一門に対する武士たちの不満は頂点に達し、5月に発せられた令旨によって全国各地で反乱が勃発。
去る8月17日には豆州(現:静岡県の伊豆半島)で頼朝公も一足先に挙兵しており、東国を吹き荒れる乱世の風雲を感じながら、たくましく成長した義仲の出陣姿(いでたち)に、兼遠は感涙に噎(むせ)んだことでしょう。
意気揚々と木曾の地を発った義仲の傍らには、いつも美しい騎馬武者が随従していました。
もちろん兼遠の愛娘、18歳になった巴です。
3ページ目 連戦連勝そして上洛。「朝日の将軍」義仲、人生の絶頂期