日本文化と今をつなぐ。Japaaan

人気登山道の開削者。レジェンドとなった猟師・小林喜作の数奇な人生

人気登山道の開削者。レジェンドとなった猟師・小林喜作の数奇な人生

/ 人物
@
2018/10/25

北アルプスのスーパー猟師

明治から大正、現在の長野県穂高から上高地にかけてその名を轟かせた、伝説の猟師「小林喜作(こばやしきさく)」をご存じですか?

彼は大正9年(1920)、現在登山客で賑わう燕岳から槍ヶ岳までの登山道を、独力で3年がかりで切り開いた猟師です。

当時一般人で4、5日かかっていた行程をわずか1~2日で行くことができる新ルートで、その距離おおよそ20キロ。その道には「喜作新道」という名前がつけられ、彼が獲物を捌いていた山小屋は「殺生ヒュッテ」の名で今でも営業しています。

山に入るのは猟師か修行僧だったという時代から、明治期になって娯楽としての登山が根付きつつありました。

来日したイギリス人富裕層らが余暇の楽しみや鍛錬のため登山を好んだためです。その影響を受け、日本の華族や大学生ら富裕層の間にも登山が広がりました。喜作はガイド無しで歩ける道を整備すれば、一般人にも登山ブームがくるのではと期待したのです。

猟師だけが知る獣道。昼は根の堅い這松(ハイマツ)をナタで切り開き、夜になれば油紙を塗った和紙を岩と岩の間に広げ、その下で眠ったと言います。

営林署が山の木を切ることを許さなかったため、下から流木や丸太を担ぎ上げ、時には100キロ近い荷物をしょい、雇った猟師仲間や強力がその過酷さに逃げ出してしまっても、彼は黙々と仕事を続けました。

猟師としての腕前は凄まじく、生涯でしとめた熊は300頭、カモシカはおよそ2000頭。腕がいいと言われた他の猟師でさえ、熊80頭カモシカ500頭というから、恐れ入ります。

2ページ目 悲劇が呼ぶ謎と伝説

 

RELATED 関連する記事