蟄居、島流し、切腹など江戸時代の武士への刑罰にはどんなものがあったの?:2ページ目
預かり(あずかり)
幕府が大名に預けて罪人を禁固刑にすること。原則として御目見以上かつ500石以上の武士が預かりになりました。食事など身の回りの費用は、預かった家が全て負担します。
禁固刑なので罪人は座敷、または牢座敷から一歩も出てはいけません。しかし、有名な赤穂浪士事件で大石内蔵助らを預かった細川家のように、温情をかけて客人のように扱うケースも稀にありました。
改易(かいえき)
蟄居より重く切腹より軽い刑で、武士の身分を剥奪されて家屋も没収されます。
元々有していた家屋や土地の近くにも住むこともできませんが、その距離は一律に決まってはいませんでした。
切腹(せっぷく)
言わずもがな、「ハラキリ」として海外でも知られている行為です。武士が体面を重んじ、罪を認めて自らを裁きます。上半身をはだけ、晒しを巻いた腹に抜き身の短刀を突き立てます。そのまま腹を真一文字に切り裂き、介錯を待ちます。
武士にしか許されていない独特の行為のため、切腹を赦されず斬首されることが一番不名誉なことでした。
幕末で不名誉に預かったのは新選組局長の近藤勇
彼は大久保大和と変名していましたが、流山で官軍に包囲され降伏ののち、板橋処刑場で斬首されました。薩摩藩士の黒田清隆は、旧幕府軍と敵対しているとはいえ、切腹させなかった新政府軍の同胞にひどく腹を立てたと言います。
遠島(えんとう)
武士のみに科せられた刑ではありませんが、有名な刑ですのでご紹介。幕府は、天領と呼ばれる幕府の直轄地、伊豆七島と佐渡島に罪人を流しました。他藩は自分らの領地内の島や人里離れた山奥を流刑地としていました。
罪人は「五人組」と呼ばれる連帯責任を伴う組織に帰属させられ、監視を受けながら組頭の命令に従って生活をしました。
幕府から遠島先への物資の援助はありませんので、生活の糧はすべて自分で調達せねばなりません。財力がある者は仕送りを得て住居を建てられましたが、ない者は粗末な小屋や穴ぐらで寝起きしました。
「御定書百箇条」によると、以下のような罪人が対象です。
- 幼女への強姦致傷をした者
- 寺持女犯の僧
- 博打宿、博打の胴元
- 殺人の手引や手伝をした者
- 「相手より不法之儀を仕掛、無是非及刃傷、人殺候もの」
- 15歳未満で殺人や放火をした者が15歳になった時
博打打ち、強姦、殺人などを犯した者がどんどん送られてくる島の人間にとってはいい迷惑だったようで、幕府に「もう罪人は送らないでくれ」と嘆願したこともあったとか。
参考文献:「図説」日本拷問刑罰史