最後の女帝「後桜町天皇」とは?飢え苦しむ民衆に食べ物を振るまった逸話も:2ページ目
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後桜町天皇の功績は
後桜町天皇は、院政を敷くことなく自ら政務や大嘗祭などの行事を執り行い、9年間天皇に在位した後に甥の後桃園天皇に皇位を譲りました。譲位後も、上皇として後桃園天皇・その後に即位した光格天皇の教育・補佐に当たりました。
全国で一揆や打ち壊しの相次いだ「天明の大飢饉」の際には、幕府の許可を得ずに飢えに苦しむ民衆に食べ物を振る舞った逸話も残っています。その姿勢を引き継いだ光格天皇もまた幕府にかけ合い、救済米1500石を飢える人々のために放出させました。
光格天皇が朝廷の権威向上に努めたことは、その後幕末の尊王思想、明治維新へと繋がっていったともいわれ、その教育・補佐を務めた後桜町上皇は「国母」と呼ばれるようになりました。
後桜町天皇は、後桃園天皇が成長するまでの「中継ぎ」の女帝だったという意見もあります。そもそも幕府が政治の実権を握っていた江戸時代のことなので、奈良時代と比べると天皇がバリバリ政治手腕を振るうことは難しかったでしょう。
そんな中でも民のことを思い、後を継いだ天皇にもその姿勢を伝えた後桜町天皇は、生涯独身で子供はいませんでしたが、「民の母」という意味で「国母」の名にふさわしい方だったのではないでしょうか。
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