2025年大河「べらぼう」に登場!お江戸のダ・ヴィンチ、平賀源内は美少年好きの生粋の男色家だった【前編】:2ページ目
長崎遊学で「江戸のダ・ヴィンチ」たる知識を吸収
寛延2(1749)年、父の逝去により21歳の時に家督を継ぎ「平賀」の姓を名乗ることになった源内にとって大きな転機となったのは、宝暦2(1752)年、24歳の時の長崎遊学でした。
遊学先では、医学・オランダ語・油画など、さまざまな西洋の知識や技術も習得していったそうです。
宝暦4(1754)年、長崎から戻った源内は藩務退役を願い出でて、妹婿に平賀家の家督を譲り江戸に出た源内。「江戸のダ・ヴィンチ」たる頭角を表し始めます。
たとえば、安政5年(1776年)、長崎で入手したエレキテル(静電気発生機)を修理して復元したことも有名です。
その後、イベントプランナーとして薬品の博覧会のような「薬品会」や動植物などの展示会などを催し、江戸中にその名が広まるようになっていきました。
「人たらし」で有名だった平賀源内
自由を好み、大胆な発想・構想力・実行力を兼ね備えた平賀源内は、いつも自信に満ち溢れていて、大風呂敷を広げることも多かったそうです。けれども、人懐っこく憎めない部分もあり、いわゆる「人たらし」で知られていたとか。
マルチクリエーターらしく、人々を魅了する反面一方でうさんくさい人間だという評判もたったそうです。
そんな平賀源内は、生涯を通じて独身を貫きました。
親友の蘭学医・杉田玄白が何度となく妻をめとることを進言しても、「四海皆女房なりと悟れば寝覚めも淋しからず」(※)などとうそぶいて、煙に巻いてやり過ごしたそうです。
※四海皆…『論語』顏淵篇にでている故事成語、「四海の内、皆兄弟なり」(真心と礼儀を尽くして交われば、世の中の人みんな兄弟のように仲良くなれる)をアレンジしたものと思われる