江戸時代の悪名高き「生類憐みの令」は社会福祉策の一環だった!?暗君・徳川綱吉が本当に目指したもの:2ページ目
儒教に基づいた社会福祉策を打ち出す
犬将軍とまで揶揄される綱吉は、儒教や仏教の学問を好む勤勉な人物でした。
母の桂昌院をはじめ、多数の儒学者の教えを受けて勉学に目覚めると、病床でも書物を離さず、将軍就任後も学者の討論や講義によく足を運んだといいます。将軍には珍しく、自ら講義を開くこともあったとか。
生類憐みの令に問題があったことは事実で、犬殺しで死罪になった者や、釣りをして処罰された者もいました。ただ、摘発されるケースはごく稀で、地方では必ずしも徹底されていなかったようです。
そもそも、綱吉は犬好きだから生類憐みの令を出したわけではありません。この法令の成立には、当時の社会情勢が大きく関係していました。
綱吉が将軍になった17世紀後半は、血で血を洗う戦国の風習が色濃く残っていました。人命に対する意識は現代とは大違いで、宿泊中の旅人が病を理由に宿から追い出されたとか、困窮や障害などを理由にした捨て子や子殺しが頻繁にあったのです。
このような空気を一掃したのが、綱吉の政策でした。彼はリーダーシップを発揮して、儒教に基づく仁政を目指したのです。
彼は、宿が病人を叩き出すことを禁じると同時に、捨て子や子殺しを別法で禁止しました。特に捨て子の禁止令は三度も繰り返し施行するほど徹底しています。
元禄9年(1696)の夏には、町村内にいる妊産婦と三歳以下の子どもを記録しておくよう全国に命じています。幼児は「七つまでは神のうち」と言われて戸籍にすら載らない時代において、この政策はまさに画期的なものでした。