農民にとっても刀剣はシンボル!豊臣秀吉の「刀狩り」、実は農民の武装解除は徹底されていなかった:2ページ目
実は徹底していなかった
そもそも刀狩りでは刀剣類の回収が重視され、畿内以外では鉄砲や弓の没収はあまり熱心に行われなかったとされています。
秀吉の臣下である溝口秀勝は、没収した武器類を送ったところ「刀が少ない」と奉行から叱られたといいます。
また、薩摩家当主の島津義弘は「武器の没収量が少ないと奉行に怪しまれるので、もっと刀や短刀を送ってくれ」と国許に手紙を書いています。
ここで重要なのは、「刀狩り」というくらいですから刀や短刀を没収するのは当然のようですが、あくまでも当時の戦争においては槍や鉄砲が主兵装であり、刀は副装備品でしかないという点です。
にもかかわらず、なぜ刀狩りでは「刀」の没収が重視されたのでしょう。
それは刀狩りが、農民の武器所有は認めつつ帯刀権の規制を求めるものだったからだと考えられます。
現代の感覚では、刀は武士の魂だというイメージが強いですが、実は戦国時代の農村の成人男性にとっても、刀は特別なシンボルでした。
刀狩りが目指したもの
秀吉としては、武士以外の帯刀を規制し、狩猟や害獣駆除など必要に応じて武器使用を許可することで、農村の武器使用を抑制しようとしたのでしょう。
実際、刀狩りの後で、農民の武力行使を禁じる喧嘩停止令を出したのも、武器使用の制限を強化するためでした。
戦国の荒々しい気風が残るなかでは、農村からすべての武器を回収できるとは、おそらく為政者たちも考えていなかったのでしょう。
当時の農村では、大名の呼びかけに応じて農民が戦場に動員されるのが一般的でした。そして動員される農民は丸腰のまま参加するわけではなく、自ら武器を携えるのが普通でした。
また軍役衆という有力農民もおり、農村には武器が日常的に蓄えられていたのです。
それに武器は祭礼や害獣駆除のためにも使用され、農村の生活と不可分のものでした。秀吉が武器を徹底的に没収するよう命じなかったのは、こうした事情を考慮に入れたからだと考えられます。
まとめると、刀狩りは、徹底的に全ての武具類を没収して農民の武装解除を強要するものではありませんでした。
あくまでも「刀剣」というシンボルを没収することで、農民たちの戦闘行為や武力行為を部分的に制限することが目的だったのです。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia