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源頼朝と源義経、兄弟間の争いは後白河法皇のせい?悲劇の兄弟ゲンカの真相を探る

源頼朝と源義経、兄弟間の争いは後白河法皇のせい?悲劇の兄弟ゲンカの真相を探る:2ページ目

関係悪化の真相

では、なぜ頼朝と義経の関係は悪化したのでしょうか?

考えられる要因は二つあります。まず、壇ノ浦の戦いの失策です。頼朝は三種の神器と安徳天皇を保護すべく、持久戦に持ち込むつもりでした。

ところが義経が短期決戦に持ち込んだことで安徳は入水し、三種の神器の草薙剣も海底に没します。

もう一つ、義経が伊予守就任時にとった態度が頼朝の逆鱗に触れたと思われます。伊予守は源氏にとって最高の名誉で、頼朝は義経が任官するよう法皇に要請までしていました。

しかし伊予守になるのなら、慣例に基づいて検非違使の職を辞任する必要があります。頼朝は、義経の検非違使辞任により都から距離を置くというメッセージを朝廷に発信するつもりだったのでしょう。

しかし、義経は伊予守と検非違使の両職を兼任してしまいます。朝廷に頼らない軍事的利権の確保を目指していたのに、弟が法皇の部下では、源氏の面目が丸つぶれです。

義経が兼任した裏には、義経を都においておきたいという後白河の動きがあったともいわれています。

後白河は頼朝と良好な関係を築いていたので、源氏に敵対する意図はなかったと考えられますが、頼朝からすれば後白河と義経が結託しているように見えたことでしょう。

おそらくこの頃から、頼朝は義経への不信感を強めていったのです。

一方で、義経にも兄への不満がありました。平氏滅亡後に占領地を没収され、思うような恩賞を与えられなかったからです。

そうしたなか、義経は反頼朝派の源行家と結託。後白河に頼朝追討の命を出すよう求めたため、あとに引けない状況になったのでしょう。

参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年

画像:photoAC,Wikipedia

 

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