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自由民権運動の英雄・板垣退助の意外な過去!出世を目指した軍人から転身した理由とは

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山縣有朋との対立の構図

もともと板垣は、新政府の兵部省の実権を握る兵部大輔の地位を望んでいました。しかし希望はなかなか叶わず、このポジションには二代続けて長州藩出身者が就任していました。

そして、三代目でようやく板垣が候補に挙がったものの、長州藩の反対工作にあって白紙化。この時、兵部大輔の地位を獲得したのは山縣有朋でした。

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また、いわゆる征韓論争では朝鮮への軍事行動を説いたものの、大久保利通らの反発で潰えてしまいました。彼はここで軍事的なイニシアチブを発揮する機会にも恵まれなかったのです。

そこで板垣は、ここでは希望を叶えることができないと覚り、新政府に見切りをつけましたた。その後に土佐へ下野して政治結社の立志社を結成し、自由民権運動を開始したのです。

今で言えば、与党で好ポジションを得られなかった政治家が野党に転じ、リベラル路線の活動家に転身したようなものでしょうか。

奇しくも、板垣を退けて兵部大輔の地位を獲得した山縣は、根っからの政党政治嫌いでした。板垣は、政治家時代も、また下野してからも、山縣と対立する位置関係にあったことになります。

その後、自由民権運動は地主層を中心に全国に広まり、板垣は自由民権運動の旗手とみなされるようになっていきます。

板垣が希望通り将校となっていれば、戦争史に残る名将となっていたのは間違いないでしょう。しかしその場合、自由民権運動の展開は遅れ、薩長の藩閥体制はより強固になっていた可能性もあります。

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参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年

画像:photoAC,Wikipedia

 

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