裏切りや寝返りが続出!幕末期の東北・北陸諸藩による「奥羽越列藩同盟」が呆気なく消滅してしまった理由:3ページ目
裏切り・瓦解・そして禍根
これでは結束も何もありません。奥羽越列藩同盟では裏切りが相次ぎました。
まず、結成から二か月ほど経った7月には、久保田藩(秋田藩)が寝返ります。同藩は勤皇思想が根強く、奥羽鎮撫総督府の征討命令を口実にして同盟から離反したのです。そして、旧幕府軍と戦闘状態に突入しました。
これに呼応して、周辺の新庄藩や亀田藩、矢島藩も相次いで同盟を裏切ります。また三春藩は新政府軍と戦うことなく降伏し、先述した新発田藩も同盟を見限っています。これによって新政府軍は新潟方面の進軍がスムーズに進めることが可能となり、北越戦線で優位に立ちました。
このあたりの裏切りの経過や同盟内での内紛がきっかけで、今も県内で禍根が残っている地域があります。
例えば山形県は、海沿いの庄内地方と内陸地方との間で今もぼんやりとした対立意識のようなものが存在します。それは今では「芋煮の味付けは味噌味か醤油味か」などというテーマでときどき噴出してくるのですが、実はそうしたぼんやりした対立意識は、幕末期に旧幕府軍と新政府軍に分かれて戦った歴史に端を発しています。
奥羽越列藩同盟に参加した諸藩は、反新政府という意識でまとまっていたわけではありませんでした。新政府寄りの藩もあれば勤皇思想が強い藩もあったのです。また、同盟諸藩が苦戦したことで寝返った藩も少なくありませんでした。
考え方や立場の異なる藩を強制的に組み込んだことが、奥羽越列藩同盟が瓦解した原因だったと言えるでしょう。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年