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報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【後編】

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なぜ「放置説」が定説になったのか

こうして見ていくと、当時の新政府が、見せしめや報復などの理由から、敗れた敵兵の遺体をあえて野ざらしにしたことはなかったと言えそうです。上野戦争でそれを行ったのは戦略上の理由からですし、会津戦争では戦後にきちんと埋葬させています。

すると最後に残る疑問は、なぜ「会津戦争では新政府によって会津兵の遺体が放置された」という説が定説となったのか、ということです。

これについてははっきりしたことは分かりませんが、有力な説としては「最初に埋葬したタイミングと、後に改葬したタイミングが混同されたのではないか」というものがあります。

現在も会津若松市にある阿弥陀寺では、約1300人もの戊辰戦争の戦死者が埋葬されています。で、実は会津戦の戦死者もこちらに1869年2月に改葬されました。これが、1868年の10月頃に行われた最初の埋葬と混同されたということです。

それで、会津戦争の戦死者の遺体は、戦争終結から1869年2月までずっと放置されていたと勘違いされたのかも知れません。

また、会津戦争における新政府軍の乱暴狼藉のイメージが強烈過ぎたため「彼らなら会津兵の遺体を見せしめで野ざらしにすることもやりかねない」」と思われた可能性もあります。

それからもう一つの理由として、会津兵の遺体が多すぎて、けっきょく埋葬が追い付かなかったという事情もありました。戦後、年を越してからも遺体捜索は続けられたのですが、それでも間に合わなかったというのが本当のところだったのです。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

 

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